夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

幸福とクリエイツ。

人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。
 岡 潔(人間の建設 P.10)

幸福とはわれを忘れることなのだ。自分はしあわせかしはわせでないか、などと自分を感傷的に振り返っているかぎり、人はけっしてしあわせにはなれない。
 B.ラッセル 幸福論 解説 P.281

作品はクリエーターから享受者たちへ、その脆弱な手触りや暖かさや戦慄込みで、手から手へ直接手渡されるべきものと僕は思います。
 内田樹 街場のメディア論 P.142

絵や音楽がわかるとは、それが強いる沈黙に耐える経験を良く味わうこと。
 小林秀雄


われを忘れたときに、時間は通常の時間とは違った進み方をするときがあるという実感はある。長いと思ったのにこんなに短かった、とか、逆にこんなに長い間ずっとなにかをやっていたのか、と驚くこともある。

ニュートンアインシュタインのいう時間は、われわれが過ごす時間とは違うという。どこがどう違うのかは判らないが、理論としてありうる時間、ということだろうか。観念的な時間。可能である時間。

例えばワープなどというものは、その時間をわれわれの時間の中に取り入れた概念かもしれない。通常はコールドスリープで過ごす、と考えていた宇宙旅行の時間を、飛び越える、という発想の飛躍に接するときの驚き、これだけで”宇宙は物語を孕むことができた”といえるのではないか。

時間、という概念が発明されるまでは、人は違う時間を生きていたのだろう。今を生きていた、ともいえるかもしれない。例えば動物。怪我をしたときに人は”痛いまま過ごす自分”を想像して痛みの恐怖による痛みも通常の痛みに併せて感じるが、動物はそうではない、怪我をした、痛い。いま、痛い、あるいは痛くない。

当然であるが、痛みを耐えることによる苦痛はない。だから怪我をしてもいつもと同じテンションだ。もちろん怪我により活動が影響を受けるときもあるだろう。でもそれは怪我をしたことと根本的にはつながらない。今を生きている。過去も未来もない。時間を発明する前の人類は、多かれ少なかれそのような発想があったのではないか。それが進歩、といわれるものかも知れないが。

しかし、そのような”時間”の発明により、人類は”将来の自分の姿”や”後世の人類へ手渡す”という発想がより明確になったのではないだろうか。そういった発想は、時間の観念がなくとも少しはあったと思われるが、より強固に意識されるようになったように思う。

例えば、人は自らの作品に対する思いを、こう語る。
”それは金で買える類のものではなかった。それは僕の赤ん坊だった。僕の肉体だった。魂だった。”

 ブライアン・ウィルソンビーチボーイズ

自分の本棚は僕たちにとってある種の「理想我」だからです。(中略)
ジャック・ラカンの言葉を借りて言えば、僕たちの家の本棚は「前未来形で書かれている」と言ってよいでしょう。

 内田樹 街場のメディア論 P.150

自分から見て自分がどういう人間に思われたいか。それこそが実は僕たちの最大の関心事なんです。

 同 P.151

時間、を意識することは、時間のなかの自分、そとから見られている自分、を将来という意識の中に見つけることでもある。そこにいる今の自分からつながる自分を、どうこうしたい。こんな風に見られたい。こういう風に変わりたい。

そういう意識を持つことは、幸福なのかどうかはわからないが、時間を意識してしまった後は、もう戻ることができない。

例えばそんな中で、本を買うこと、買った本を本棚に並べること、これは実は将来の自分をこのように構築したい、という欲求からだったのである。内田氏の文章を読んで、そのことが判った。今、僕はグチャグチャながら右と左に本棚を並べている。ほとんどがこの家に来て買ったものだ。その前の本はダンボールの中にあって出していない。出さねばな、と思いながら出せていない。

こうしてブログでなにかを書き付けること、紙にメモのように日記を書くこと。そんなことを続けているのも、この時間、という概念が根っこのほうにあることは大きな理由になっている。

しかし、本当にものを作り上げるときには、この”時間のくびき”から一瞬といえども離脱しなければいけないとも思っている。

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今日は会社が休みだったのだ。

5000円出して、京都へ普通電車往復しようかとも思ったが、これは夏のテーマとしよう。

ということで、できるだけ金を使用せず、楽しく過ごす、ということで、自転車にて大須及び名古屋駅へ。

この名古屋という街は、神戸で生まれ育った僕に言わせれば、自転車天国だ。大学を仙台で過ごした僕に取っても、自転車天国だ。とにかく平ら。自転車で脚力が不要である。(だから歩くにもいいのだが)

最近は、名古屋駅前は自転車駐車禁止エリアが多いので、出かける前に駐車可能エリアをチェック。レジャックの裏のほうに停めた。

目当ては高島屋11Fの本屋。今日はWEEKDAYなので、すいているだろうと踏んで出かけたが、前にあった椅子で本を読むエリアがなくなっている。ここでこころゆくまで本を読もうと思っていたのにいきなりあてが外れた。まあ、ないことはない。場所が変わり、椅子も三脚だけだがあった。すぐには座れず、踏み台に座って待つこと30分くらい。空いたので移動。

内田樹 街場の文体論 を読む。

神戸女学院での最後の講義(ゼミは残っていたとのことだが)の講義録。全14回を一気に読む。3時間位はかかったか。しかし14回分を3時間で読んだわけで、未消化の部分はあるのだろうが、非常に濃い時間であった。

なぜに立ち読みか。もう本の置き場が無くなってしまったのである。いまや机にたどり着くのも厳しい。朝なんかはよくけつまずいて、本が崩れる。で、残念ながら、本を買うか、本を処分するか、の事態になったと、不本意ながら思い至ったのである。

たぶん一般?の方であれば、だいぶ前にその結論に達したであろうことは想像に難くない。もう既にどこに何の本があるか、ほとんどわからない。覚えていない。

しかし、前向きに考えるようにした。これで”本が読める”。

いや、ほとんど、”いつか読むだろう”及び”いつか読みたい”の本を購入し、ひたすら積み上げることをこの数年間続け、結構実際に読む本は図書館で借りる、ということが多かった。もちろん、図書館で読んで、面白くてAMAZONでポチリ、ということも枚挙に暇がないのではあるが。

ということで、本の山というか、谷というか、ブラックホールから本を引っ張り出して読んではいる。その一つが、本日引用の”人間の建設”だ。

改めて思う、活字が大きくなったなあ、と。でも読みやすい。いいのだが、古い文庫を読めなくなった。目が、痛くなってしまう。いいこともあれば悪いこともある。

で、街場の文体論。最後の講義、ファイナルコンサートのようなもので、憑依度が高い、と内田先生もあとがきで書かれているように、結構なドライブ感であり、途中のちょっと厳しいところを除けば一気に読破した。

小林秀雄ランボー内田樹レヴィナス。人は交通事故のように運命の書に出会うのであろうか。

巨頭の出会いにはもちろん比較すべくもないが、僕に取っての池田晶子さんもまた。

小林秀雄内田樹は、外から世界を導きたくて、仏語を学んだ。僕は、英語も仏語も、そうした出会いは残念ながらなかった。むしろ受験の為のたまらん方便として学んだ。だから勉強する姿勢がついておらず、大学では仏語のテストではなんと(人生初の)0点を取った。

池田さんの場合は日本語だった。そして読んだのは平易な”週刊誌連載”。で、勢いを駆って手にした初期作品集、これには全然歯が立たなかった。考えたことがなかったのだ。なんのことかさっぱり、だった。

卑近ながらも巨頭の経験と比べさせていただくのは、まったくわからないが、判ろうとしたことが共通するからだ。判らなかったが、読んだ。とにかく、全著作を、読んだ。判る部分もあった。わからないのも、あった。

平易な、(僕のような読者を想定して、わかりやすく”贈与”をしようとして書かれた)週刊誌連載分の本を読んでいるうちに、少しずつ、初期の歯ごたえのある本の意味がわかってきた(ような気がした)。もちろんまだまだだ。しかし、初めて読んだときよりは、なんだか、あれ?

そんな体験をした。レヴィナスを師と考え、会いにいった内田氏に比べ、お若いし、いつか東京のサイン会にいこう、などとボケた考えだった僕は、(今生での)池田さんには結局お会いすることはなかった。本当に、残念だ。

内田氏の本を読んで、なぜ池田さんの本が素晴らしいのかを改めて感じた。無私なのだ。徹頭徹尾、読者のことを考えている。すべてを、伝えようとされている。そのことが、文章及び行間から、ひしひしと伝わるのだ。それは本当に申しわけないくらい親切だ。わからせてあげます!

そんな本は、そんな文章は、初めてだった。批判を、恐れない。正しいものは、正しい。文句があるなら、かかってきなさい。結局、かかっていった人はいなかったと記憶する。詫びを入れたり、敵前逃亡したり、遠くで吠えたり、というのは、あったようだが。

いや、内田先生の本のことであった。だが、この講義本を読んで、池田先生のことを思ったのである。読者にとことん贈与しようとする文章、これこそが、基本だ。全ての文章に必要なことだ。

読者を見くびらない。相手を見切らない。入学試験で採点者の気に入るような文章を書くこと、受験で僕は国語が得意だった(というか国語しかまともにできなかった)ので、いつもそうしていた。気分は、悪かった。魂に、悪いことをしている気分だった。ごまかしの、ようだった。はやくこんな”国語”はやめたいな。本当の国語は別にあるのにな。

内田先生の本に同じことが出ていた。そんなことになれているから、職を得るため、採点者のみにわかるように書いた文章の気分の悪さ。そんなものを書きなれてしまうことの、魂のスポイル。

そのことが書いてあった。そのことだけが、書いてあった。生でこうした講義を聞けた神戸女学院の皆さんがうらやましい。神戸出身でも、男は厳しいし。(あたりまえか)

よい、本だった。内田先生、立ち読みで申しわけありません。

街場の文体論

街場の文体論

人間の建設 (新潮文庫)

人間の建設 (新潮文庫)

そうそう、引用したこの本はちゃんと買っています。
ですが、本は70冊も出しているとのこと。全部は無理だ。

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

あと、村上春樹が中華料理を食べられない話、グレート・ギャッツビー、長いお別れ、と続く系譜の話は、大変面白かった。