夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

宗教とはなにか。

”私”の”こころ”を探ってみると、

 

そこに”宗教アレルギー”がある。

 

より正確に言うなら、”宗教を理由とする組織に入ることにより、布教や献金を強制される、あるいは”自発的”にするようになること、および自分や家族がその時間をこれまた強制的にそうしたものを行う関係性にとりこまれること”への恐れがアレルギーになっているようだ。

 

しかし、これは当たり前である。たぶん多くの”日本人”の皆さんは、似たような感じをお持ちなのではあるまいか。

 

そして、そうした組織が主にその”入るべき”理由とするのが、たぶん”死への恐れ”への対策のため、ということだと思っている。

 

死の恐れとは、すべての機能が分離した実体として肉体のアイデンティティを受けいれた罰金だ。死を恐れるのは誕生だけだ。存在と不在は相互関連している二元性であり、これは存在感が起こったあとで初めて理解された。

それ以前は不在の感覚も存在の感覚もなかったのだ。

 

意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジ P.244

 

死、を学び、想う、という姿勢は古くからあった。

 

メメント・モリ、という言葉と共に

 

しゃれこうべといっしょにいる善男善女、この世の栄華をきわめた人々が

警句とともに銅版画に示されたりしている。

 

池田晶子さんはおっしゃった。

 

墓碑がすきでいろいろ見ていて出会った言葉、

 

”次はおまええだ”

 

 

そしてご自身がこれでいくか、とおっしゃったことば、

 

”さて、死んだのは誰なのか”

 

 

うーん、やはり死を個人のものとする想いに直撃する前者には、

まだ迷いがあるような。

 

転じて池田さん、死というものに一回赴き、”還ってきた”感を

感じるのである。

 

さて、今年も暮れが押し迫って参りました。

 

 

本年もありがとうございました。

 

”さて、歳月とは、なんなのか”

 

意識に先立って ― ニサルガダッタ・マハラジとの対話

意識に先立って ― ニサルガダッタ・マハラジとの対話

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ナチュラルスピリット
  • 発売日: 2018/04/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

 

 

ディストピア、ユートピア。

 

私とは何か さて死んだのは誰なのか

私とは何か さて死んだのは誰なのか

 

 

次官が事実上更迭された。

 

日々このブログに良いと悪いはない、時間も空間もない、

と世迷い事を書き散らしている身で、この世のしんどいことを

こうして書くのもどんなものか、ということも思うのですが、

 

私淑する池田晶子さんも週刊誌に時事放談(笑)を掲載されていたひそみにならう、

ことにします。

 

ブログを離れれば会社員男性、名前は某、所属はどこ、

そして家族や子供がいる、という属性(それに一体化しすぎるのこそ苦であり、

マインドの美味餌、であるのですが)からすると

以下の感想となる。

 

鈴木次官、大変でしたね。ご苦労さまでした。

 

役所、である。退官、がある(次官の次の官職はない)、自分と家族の

生、がある。

 

次官の次は天下る。いまはあからさまにはできないが。

 

であれば、8年先輩の元官僚が事実上の社長を務める天下り先のその

先輩が、

 

教えてください。

 

といったらどうか。人は知らないが(自分は全といってますが汗)、この

ワタクシ某なら、

 

辛い。

 

どうやってことわればいいのか。

 

とても辛い。

 

 

だからこういう事態になったが次官は、

 

どこかでほっとされているのではないか。

 

周りも気を遣っている。

 

 

”まだ確定した事実でないが故に、訴追案件にしない。”

 

まわりはだれもが分かっている。

 

あの人は辛い、と。

自分でなくて、ある意味よかったなあ。。。

 

 

大臣、というのは短期の上司、基本素人。

だから別の損得体系に在る。

 

だからであろうが、大臣の方、いいことを言った。

 

OBが取締役にいると断れない(まあそういう意味と取りました)。

 

その通りだと思う。

 

OBのいない先へ意見する立場としての官僚。

その勤務はまさにユートピア

 

だがしかし、

 

であれば自らの退官後どうすればよいのだろう。

 

一寸先は闇。まさにディストピア

 

 

だからどうしても思ってしまう。

 

自分の時にちょうど良くあってほしい。

 

 

そう思うことの闇。まさにマインドの好餌。

 

 

一番の根っこはなんだろう。

 

 

自らの餌をえさ場を、生を守りたい。

 

これだろう。

 

 

餌を守る、とは、他者に取られないこと。

 

 

これはたぶん動物としてのスティグマであろう。

 

逃げられない。簡単には。

 

 

逃げる手は、たぶんあるのだが。

 

 

そもそも郵便事業。保険専門ではない。素人だ。

 

であれば保険は普通では売れない。

 

誤魔化し、嘘、郵便貯金からの引っ張り込み。

 

これしか手がない。

 

 

売って来てなんぼといわれれば。

 

 

ここでも来る。”ああ辛い”。なんでセールスなんてあるのか。

なぜ人ははたらくのか。

 

とそうなってくる。

 

 

そんなことはみんなわかっている。

 

ばれて”世間様に”怒られる。組織があぶない。

 

 

次官に聞いた先輩の気持ちもまた、

 

 

”ああ辛い”。

 

なにしろ実質的な社長である。必死となるのはあたりまえだ。

 

 

だがその結果をみた、”関係のない人”の感想。

 

 

まあ、”けしからん”でしょうか。

 

 

遠因は、やはり、郵便の衰退、郵便貯金では金が生まれない、

 

あたりでしょうか。

 

 

 

このようなことを見るにつけ、

 

人はどう気持ちを持っていくのがいいのだろう、と思う。

 

いまのわたくし某の考え。

 

”他責は一瞬楽だがすぐしんどくなる。

自責で一回耐えてもどってくるのが一番楽。”

 

これだ。

 

一番、楽

 

がPOINT.

 

 

他責、で考えると、セットでもれなく”不安”がやってくる。

 

人の所為にしたが、ずっと逃げ切れるか、というような”不安”。

 

 

これはたぶん避けたほうがいい。

 

その点、自責は”楽である”。なにしろ引き受けている。これ以上、引きとらなくていい。

 

セットでもれなく”安心”がついてくる。

 

 

だが、たぶんもっと先がある。

 

 

他人も自分もない、である。

 

 

そう、いつもワタクシ某が言っている世迷い事、

 

すべては全

 

である。

 

 

そして、この世は自らがあるが故に在る。

 

である。

 

 

すべての起きることは決まっている。

 

 

である。

 

いやいや、自分の意思で次官は先輩に漏らしたんでしょ。

 

 

そうきますよね、普通。

 

そうなのです。その通り。

 

だがその”自分”て何?

 

“意思”はどこから来たの?

 

“脳味噌????”

 

 

 

脳味噌が単なる”受信器”だとしたら。

 

 

 

人はすべて他責で回る。

 

子供なら、学校のせい、先生の所為、スクールカーストの所為。

大人なら政治の所為、政治家・官僚・経済の所為。

日本人なら、アメリカの所為。

アメリカなら、民衆の所為、神の所為。

神、宇宙、空間、時間なら、うーん、この”生”の所為であろうか。

 

池田さんはおっしゃった。

 

もし子供がいたらこうつたえる。

 

全ての真理を知り、絶対自由でありなさい。

 

 

さすがは池田さん。

 

かつて手紙に書かれて池田さんは嬉しくおっしゃった。

 

池田晶子先生は私の故郷です、といわれました、と。

 

 

そして池田晶子先生も故郷に還りたい、と。

 

池田晶子先生は故郷であり、かつ故郷に還りたい人でもある。魂でもある。

 

 

肉体とマインドとの一体化をけっしてなさらず、真理を”哲学”を

巫女として伝える役を

 

自身自覚して行われた方であった。

 

 

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

 

 

 

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

 

 

 

 

 

善い、とはなにか。

善い。良い。悪い。

 

良い、ということばを口にすると、

心の奥底で不安が兆す。

 

あ、この状態がなくなると、この私・気持ち・意識はいやだと思うだろう。

なくなることへの不安。

 

これは嫌な形をとった、”甘美なる意識の餌”。

 

意識はそのゆらめきを食べて存続する。

 

悪い、ということばを想う。

 

だれかの所為である、という漠然とした想いが

これまた心のそこで生まれる。

 

他罰感。=人の所為にする。”私は違う”。

 

これまた甘美なる堕落。堕落?なにからの??

 

この気持ちもまた意識=仮の”私”の構成物。

 

食餌、といってもいいかもしれない。

 

 

こうしたことで”生まれて”から構成される”私”。

 

”生きている”という状態とセットである。

 

 

これは、絶好のタッグだ。”必須”とほぼ近いかもしれない。

 

だが

 

だが、

 

 

それにとらわれ続けることは、

 

 

楽しくない。本質的に。

 

 

ではどうするか。

 

つまり。善悪はない、と思うこと。

 

思う?ちょっとリスク。

 

感じる?に近いか。

 

 

善であると思うこころあり。

悪であると思うこころあり。

 

心自体の善悪はない。

 

ただそうある。

 

 

それを

 

ただ

 

見つめる。

 

 

存在しない眉間の

 

存在しない第3の

 

 

目で。

欲望と恐れ。

質問者: 何が事実なのでしょうか?

 マハラジ: 純粋な気づきのなかで、欲望と恐れから影響を受けずに知覚されたことが事実なのだ。

アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジ

P.120

 

エゴ、或いは意識、”私”ではない私、いろいろな言い方はあるが、この身体(私とははこの身体であるか)にてこの生のなか、さまざまな”経験”を”時間”と”空間”のなかで過ごすことで得るものは、欲望と、その二面あるいは反面の貌としての恐れである。

 

欲望は、すべからく、恐れを産む。

 

恐れを産むものを、欲望と呼ぶ。

 

欲望は、生物として”生きる”ことの中で、生存本能や遺伝子等の影響のなかで生まれるものが多いように思う。

 

例えば最近の私の中で生まれた”恐れ”。

 

・自分が死を迎えるときに高額医療は保険料では負担しないだろう=延命はできないな

・将来生活する金は年金では賄えないだろう。貯金はできるのか

・結婚生活とは”カネと顔の交換”である、そしてそのことは”人としての未成熟”を示しているのではないか。カネはまだ生存本能だとしても、本来の自分ではない”顔”や”稼ぐちから”で人が寄り添うことは欺瞞ではないのか。しかしその欺瞞から自分は一ミリも離脱できていない、むしろどっぷりだ。顔に惹かれることは本当の美ではないのではないか。左右対称や健康度(子孫が有能、あるいは健康であること)を求める遺伝子の欲求への盲目的服従なのだろうか

 

などという想いが出てきた。

 

なんだか苦しい。そして、私を含むみんなの”生”は、このなんだか苦しい“お題”という薪に火をつけて、まわりを取り囲んで踊り狂っている。

 

それは”苦し楽し”だ。

 

苦しい、を薪とする、エゴによる"生の営み”だ。

 

それが、いいとか、悪いとかではなく。

 

 

それがエゴなのだ。意識なのだ。無意識に意識であることの”普通”なのだ。

 

そこを、”見る”。”気づく”。内部収縮として”目撃者に落ち着く”。

 

そこだ。

 

 

エゴがいかにけしからん、と思っても、”けしからん”こそ新規の薪。

 

なんと巧妙なことだろう。

 

 

であれば。

 

 

年金や、健康やこの生や”末期の想定される苦痛”や、

カオや稼ぎ力や、そのことだけでつながっている欺瞞や、

 

それもこれも、どうでもいい。

 

エゴのえさ、なのだから。

 

エゴは存在するために餌が必要だ。

 

自然に生み出すように、人をしむける。

 

 

それはエゴにとって、自然なことだ。

 

だが、苦しい。

 

苦しい?誰が?

 

苦しむのは”エゴ”や”時間”や、経験に無頓着だからなのでは???

 

 

欲望や恐れはなくならない。エゴも消え去ることはなかなか困難なのだろう。

 

だが、

 

エゴを見据えていう。あなたはエゴだ。

 

 

カオナシ、という妖怪がいた。

 

あれはなんだったのか。

 

 

妖怪ではなく、全人類、を示していたのかもしれない。

 

あるいはエゴ、そのものか。

 

 

いずれにしろ、カオナシは私だ。ちなみに、千も千の父母(豚になる)も

あのオハナシもみんな、

 

わたしだ。

 

 

となんだか広げた風呂敷が大きくなりすぎたようで。。。

 

 

ではこの辺で。 

千と千尋の神隠し [DVD]

千と千尋の神隠し [DVD]

 

 この千と千尋のDVDを張り付けてみて気づいた。

 

千の後ろのお二人、なんと”貪欲のエゴ”を自然発露されたご両親ではないですか!

 

宮崎駿という人、これはけっこう策士的覚者、なのかもしれない。

 

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ナチュラルスピリット
  • 発売日: 2005/06/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

アイ・アム・ザット 私は在る

アイ・アム・ザット 私は在る

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ナチュラルスピリット
  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: Kindle
 

 

 

起きることは全て正しい。

そういう言葉がある。

 

さまざまに受け取れよう。

 

運命論的諦念。しかたない、あきらめよう、という受け取りが第一に来るかもしれない。

 

だがすこし残念だ。人として、人生を過ごしているこの瞬間を、外的要因で決められるものとしてあきらめている部分がある。

 

運命論が否定されるのは、この文脈だろう。

 

次に進めると、起きることを外的ではなく、内的に受け止める気持ちの萌芽があるステージとなろう。

 

受け身の運命論ではなく、自らのなかで自らのものとして物事が起きる、という感じ。

この風味を含んだ時点で、運命論は魅力的になる。

 

いわば運命を自主的に受け入れること。

 

外的規制要素として運命をみるのではなく、みずからの一部として運命を”とりこむ”。

 

ここの違いはすごく微妙で、気持ちの”姿勢”の違いだけなのかもしれない。

 

そして次の段階。

 

運命をこえ、時間や空間を超えた意識になれば、

 

もはや”運命”の語も変容し、全てのなかに溶けさる。

 

時間や空間という制限がなければ、

 

 

果たして”運命”の語が意味することはあるのであろうか。

 

特にない。

 

 

だから、運命はない。

 

そして、ただ、物事が起こっている。

 

 

それを見ている。

 

ただ、見ている。

 

 

その想いこそが”正しい”。

 

 

起きることが起きている。

 

 

ということになってくるような気がする。

 

 

ここもまた微妙。

 

 

だが、3段階を経て、変化していく想い、という風に考えている。

 

全ての中の一部として、物事が生起し、それをみるともなく、”目撃している”。

 

そしてそのことを”正しい”と表現していく。

 

 

運命、の語には”すべてが過ぎ去る”と人に感じさせるドクサが絡みついている。

 

 

そこから自由になる。そうすれば”運命”の語はこわくなくなる。

 

 

そうか、”運命論”をめぐる会話には、裏に”運命”という語への恐れが

 

 

あったのかもしれない。

第3の目。

手塚治虫に”三つ目が通る”というマンガがある。

 

額の真ん中に裂けるように開く目もある。

 

写楽(だったかな)のは丸かったが。

目に見える外的な全てに注意を払い、

同時に内面にも注意を払うのだ。 

 P.252 ”それ”は在る

 

通常、人は自分の身体を境に、内側と外側を区別する。

その認識がまた分離という認識を強化していることになるのだが。

だが、実際は、内面というものはない。

あなたは身体の内側全てから世界の全てまで、

全てはあなたの外側にあるものなのだ。

そしてまた同時に、それら全てがあなたの 内側にあるものなのである。

 

 P.253 ”それ”は在る ヘルメス・J・シャンブ

 

この感覚はもしかして、第3の目を持つ、ということに通じる、あるいは

象徴的に示しているのかもしれないと

 

思っている。

 

?それ?は在る―ある御方と探求者の対話 (覚醒ブックス)

?それ?は在る―ある御方と探求者の対話 (覚醒ブックス)

 

 

三つ、であること。

最近、3つにまとまった存在、表現が気になっている。

 

どうも、3、という状態は、バランスがいいようなのだ。

 

さまざまな3つの表現、立場、言葉が思い出される。

 

三位一体。

真善美。

サット、チット、アーナンダ(存在、意識=気づき、至福)。

神、精霊、神の子。

ヘーゲル弁証法、正反合というのもあった。

 

3人寄れば文殊の知恵、というのもある。

 

3つであることで、バランスがよく、そして最終的に一つに集約されていく予感がある。

 

最近読んでいる、ラマナ・マハルシの伝記の中でも、以下の記述を見つけた(P.145)。

ブラフマンは実在である

宇宙は非実在である

ブラフマンは宇宙である

 

宇宙がブラフマンから区別されて知覚されたとき、その知覚は偽りであり、幻想である。

幻想は真我として体験されたとき実在であり、真我から区別して見られたとき幻想となるのである。

 

頭で理性的に読むと一見感じる矛盾。

 

その矛盾をうけとめ、抱き、感じているなかに、

 

ぼんやりと浮かんでくるような真実。

 

全ては、一つである、ということ、

 

なのであろう。

 

ラマナ・マハルシの伝記―賢者の軌跡

ラマナ・マハルシの伝記―賢者の軌跡