夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

さて。

ミニマム、とはなんだろうか。


生きていると、いろいろくっついてくる。


一人は気楽?


いやいや。


食費は足りるか?


栄養は足りるか?


身体によい食生活か?



洗濯せねばね?


洗剤は切れてない??



臭くないかな?





いやはや、いろいろあるものだ。


そんなことを忘れて、何かに集中するにはどうするのか。




ミニマリスト、という考え、これはたぶん、持ち物に関するあれやこれやを極力想起しないように、保険をかけるという意味もあるように思う。


あれを買わなきゃ。

流行っている。



流行り、とは結局は他人の装いと自己の装いの比較である。


それだけではある。



あの人は、今多くの人が取り入れている”美しさ”を、自ら考えることなく”流行の情報”として取り入れている。


いや、それが悪いわけではない。


情報として入力し、それを味わい、納得し、自己に生かす。



そんな結果を経てはいる。



だから”他人との比較”だけではない、とも思う。



だから、やってもいい。



流行りのgoodsは、そのときだけ安く手に入るから。





まあでも。エネルギーはいるね。




そのあたりを言語ではなく、雰囲気として人は次第に学ぶのだろう。



そしてその後、自らのスタイルが練り上げられればいい。





最近は、東京で一人で住んでいるわけだが、服ではそれほど悩まなくなった。


いつもとりあえずは黒いものを着る。



まあ、汚れがわかりにくい、というのが主な理由ではある。



あと、昔から黒が好き。絵をかけば、ベタが多い。




気が付くと、靴、靴下、パンツ(いやほんとの意味での)、シャツ、ベルト、すべからく黒。


向田邦子さんも、そういえば”クロちゃん”と呼ばれていたと聞く。



まあ、一人でうろうろするには、黒は楽だなあ。


合う合わない、は関係ないし。




そぎ落としきった、ともいえないが、まあ、それに近い感じもある。



会社と普段着で同じ靴なのは、本当はどうか、と思ってはいるのだが。




池田さんは、正確には存じ上げないが、感覚としては長身であられたと思う。

なんとなく165cmから167cmの間くらいではとの印象である。



お洒落な、方であったと思う。


どちらかというと、ドレッシーが基本。ドレスダウンしてカジュアル化するタイプ。



だが、その著作ではあまりそのことに触れられていない。読者モデルをなさっていた、という短い記述があるぐらいだと記憶する。



考える、には身体も衣装も、本質的には関係がない。


だからお洒落ではない、というところが


やはり素晴らしいのだが。

無敵。

十字架か毒人参かは大した違いじゃない。いずれにせよ世間というのは、わからんものが怖いものなのだ。

 池田晶子 無敵のソクラテス(完全版) P.148


正しいものが正しすぎると、困る、あるいは邪魔である。

正しいものが正しいとわかるからこそ、恐れる。


正しいことは、よこにおいといて。



そうなってしまうのはどうしてなのか。


正しいもの、は心に余裕がないと受け入れられない。



というような気持ちがどこかにあるのはなぜなのか。



ソクラテスを恐れ殺した古代ギリシャの人々も、イエスを十字架にかけた人々も、怖さ、が殺したと言えそうだ。


正しいことを正しく言い続けた池田さんも、世間の無理解に絶望したこともあったであろう。

だが、公開議論はいつでも受けます、かかってきなさい、と池田さんがおっしゃったとき、実際にかかってきた人はいなかったと記憶する。


これも同じ。カゲでこそこそいう人は、向こうが正しく、自分が正しくない、という気持ちが多分どこかにある。

相手が池田さんであれば、それはいつも池田さんが正しい。


いや、池田さんが正しいのではない。正しいことが、正しいのだ。



そういう風に、池田さんは在った。正しいことが、言葉として、巫女たる池田さんの口から”宣”べられる。




からして、”公開討論”は”公開処刑=自分”となる。



自殺、かもしれない。

だから詫びを入れる。


詫びるのならわかってるんでしょ。ならはじめからいいなさんな!


やさしく池田さんはしかってくれる。

だけど、それで、真実にまがりなりにも触れえたじゃないの。


そうもおっしゃるような気がする。



やさしく、殺す。殺して、生かす。


たぶんそうだったはずだ。


わたしはそんなに暇じゃない。


そういいつつ、時間をとってくださったであろう。

あ、では、公開討論、いいかもしれない。



プロレスのギミックでは、そうして敵対関係作ってから、共闘、という流れもある。


あれ?なんでプロレス??


池田さん、すみません。。。




でも、どこかで、たぶん”わかっていて、そういうことにして、楽しむ”というプロレス文化には、”哲学”(いや、考えるほうの)と根底で似ている要素が、少しくあるような、気がしている。

時間。

人によって時間はそれぞれである。

フロー、という概念がある。

共時性シンクロニシティ)という考えがある。


インナーボディ、という言葉がある。

そして”魂”という言葉も。


歳を取ると一日が早いという。

過ごした経験が長いと、それと比べて一日を味わう深さが浅くなるのかもしれない。

体験を深く感じない。

まえにあったこと。


こういう風に過ぎてゆくこと。



であれば、歳をとってから、若いひとのように時間を過ごしてよいのであろうか。


時間を味わうことができないのに、時間を浪費する?消費する?


危ないのかもしれない。気が付くと、”Game over"


で、なんのゲーム?




宗教とは忘我を提供するもの。恍惚を提供するもの。


浮世。憂き世。



ただ狂え。ただ過ごせ。どうせ。いや、一瞬一瞬を感じて。



同じなのか。ちがうのか。



生きるとは、なにか。




結局ここに行き着く。

着いたところでどこにも行けない。



いけないとわかる。これがチルチルミチルの青い鳥。



青いのか。居るのか。いないのか。




ねえ、池田さん。

一日の王。

一日の王、という考え方を読んだ。

物事は、物サイドと心サイドとの間での立ち位置の引っ張り合い、という気がしている。


これは”物欲”、”知足”、そして”経験すること”ということが関係している。

自らが持っているもの、奇跡的な素晴らしいもの、それは”いまこの瞬間である”という結論は、結構いろいろなところで読み聞きする。気を付けると、みんなの結論はこのことだけだ、という気さえする。


今を抱きしめて。

一時一事。

断捨離。

ご先祖様に感謝。


こんなキイワードを思いついてみるが、そこの根底には実はすべてこの言葉が”下敷き”されてないですか?そう、”瞬間(いま)”。

すこし、話がずれるようだが。



経験することのうれしさとさみしさ、いったいどちらが”シアワセ”なのか。


こんな命題(ま、自分かってな、ですが)もある。


卑近な例ですが。


おいしいものを食べる。幸せ。それが続く。それが当たり前。
食べられなくなる=財政的な理由等から。

昔食べたものに戻る。おいしくない=零落した人生。


この構図は、どうなのだろう。

すこし、ステレオタイプだ。



そこからダイブできるのは。

たとえば、そうである自分のこころの動きを見つめる。所詮外在的な”金で買う必要のある、手間をかけた美味さ”であることに思い至る。

そこをしっかり見つめる。

ここででてくるのが、

”物サイド、心サイド”の考え方。


そう、物にとらわれることの、継続困難性(=すごく続いても最後は死ぬ、死がなにかはおいておいて。死とはなにか、に続くが、これは”心サイド”の話)の自覚。

金を出さないと手に入らないものは、おいしくないのか?

そうか?

ほんとうにそうか??


このあたりは禅問答が入って来る。



考えさえすれば、結論は同じ。


”そうではない”。



ただ、考えるのが、案外難しい。


かわいそうな自分。

かわいそうな境遇。


世間がわるい、政治がわるい、国がわるい。




そうですか?


池田晶子さんはこうおっしゃった。


”社会はいらない。社会性はある”


こうもおっしゃった。金を見て。


これはなにをするものかが本当にわからない。



これは痴呆ではない。一度行って、帰って来たひとの”わからない”だ。


まあ、日常生活で、いまレジを打っているパートの方に言って、わかるかどうかは別にして。いや、パートを莫迦にしているのではない。パート中は考えるのが難しかろう、という意味だけなのだが。


美味いものを食べて、やがて哀しき、は必定、ただし、



そこから出発し、たぶん”知足”のステージへゆき”沈思黙考”を経るのであれば、現世へ帰還できる。

”今”を抱きしめつつ。


今、をこころに秘めて、美味なるものを食すれば、それがなくなると不幸になるもの(=日本死ね)ではないコンコロモチで相対すれば、そこには違う意味での感謝があるだろう。


これが、本来の意味での”おもてなし”なのだろう。

まちがっても”こんだけしてあげた、カネをたくさんはらうよな?”、という意味ではない。


たぶん観光誘致ではその意味で使っているが。



だから底が見える。さもしい。


もっというなれば下品(げぼん)。


これも池田さんがおっしゃったことば。”もっと差別をしよう”。

下品であることは、自分の魂にとって悪い。すべての人に対してたぶんそうだ。


だから池田さんのアジテーションは、すこし偽悪的ながらすごくおせっかい的愛に満ちている。


で、これがわかりにくい、と来ている。



これこそが”禅問答”の正しい在り姿、なのかもしれないが。

グノーシス。

グノーシス (講談社選書メチエ)

グノーシス (講談社選書メチエ)

この本を読んでいる。

非常に、わかりやすい。

なんとなく知られてはいるが、異端と悪魔的イメージでよくわからない”グノーシス”というものに関する情報が、読みやすく纏められた本だと思う。


グノーシスや禅の肝は、個人個人の中に神に属する霊性、あるいは神性が、含まれている、とするところであると個人的には思っている。

今までに本ブログでも述べてきたように記憶するが、例えば現在のキリスト教の主流派ではあくまで個人と神は別物で、個人の魂は神に救われるべきものである、とみなしていると理解している。

で、どちらがいいですか、と言われれば、自分の中に神の一部がある、とするほうが、神はあくまで自分の外にある、とするより魅力的な考え方であるが故に、将来的には主流派としては、信徒をすべて持って行かれる、というリスクが高い。

だから異端とし、迫害した。

その教義をある意味曲解し、信徒を抹殺した。


そういう理解だ。



敢えて日本に来て禅を選んだ欧州のひとが、若い時にグノーシスを知っていたらわざわざ日本に来なかった、と呟いていたのが妙に心に残っているが(いやあ、日本的なものが本質的には面倒なんですね)、まあ、それは禅とグノーシスが本質的に陸続きであることを示してもいるように思う。

ということは、例えば禅の知識を受け入れている日本人は、本質的にグノーシス教徒、のようなものである、とも言えるのかもしれない。


この世にあって、死を迎え、死で神の一部として還ってゆく。


こんな意識があると、人生というものはだいぶん楽かもしれない。

まあ、こんなことを考えさせてくれる、なかなかに興味深い思想としてグノーシスを理解しているわけである。



今回気になった箇所にモーツァルト作「アウェ・ウェールム・コルプス」(Ave verum corpus,K618)に関する記載がある。(P.116)

合唱宗教曲であり、歌詞のテキストはカトリックキリスト教会の「聖餐式」「聖体拝領式」の為のテキストから取られているという。

実はこの曲は意味もわからないままに自分のIPHONEに入れており、リピートで聞き続ける、ということも多かったため、その曲の意味と成り立ちをここで知ることができてすこし感慨深かったのもある。

意味を引用しておく。



あなたは人間のために十字架にかけられ、まことに苦しみ、いけにえにされ、その脇腹は突き刺され、水と血がそこから流れ出ました。死の試練として、あなたをあらかじめ私たちに味わわせてください。(筆者 筒井賢治氏私訳)

聖餐式のテキストであるので、Ave=挨拶のことば に続いて”verum corpus"=まことの身体 に対する呼びかけになっている。

キリストは仮に現れたものであり、つまりは”人間に死んでみせて理解させる”ために十字架に架けられた、とする考えがある。つまりはある意味”演技”であり、その死はいわば”演じられたもの”、本当に苦しんではいないものだ、というものである。
それに対し、十字架に架けられたキリストは、本当に人間の身体を持っていたのであり、人間と同じ苦しみを得てますよ、安心してください、”狡くないですよ”というのが正統派の立場となるだろう。

だから”まことの”という巻頭語が敢えて必要となるのである。


ここではどちらが真である、ということを論じるつもりもない。どちらの説が、”仕組み・組織としての教会組織”に有用であるか、という要素がある時点で、”宗教”としての信仰の限界を感じるのみである。

やはり、そうしたものから離れて考えるべきである、という風に思っている。


まあ、そうではあるのだが。


こうしたさまざまな要素から長い年月を経てきた”宗教”というものの歴史的経緯を見ることは、知識としては面白いものがある。


グノーシスはそうしたことを考えさせてくれる、気の利いた切り口の一つ、という意味もありそうである。

過去を振り返る。

日本人は過去を振り返らない民族である、というコメントを見た。

自らの気持ちをのぞいてみると、確かにその気配がある。

すこし考えてみよう。


過去を振り返る、とは、過去のあのときあの出来事が、自らであったかもしれない、という感覚があるかどうかが大きく関わっているように思う。

これは、実は民族的な宗教感からかもしれない。

日本人には仏教的輪廻転生感がある、と言われるかもしれない。ただ、これが血肉化していない。

だから、過去は”過去”なのだ。


本質的には”自分に関係ない”。

だから、”自分は調べない”。歴史は”自分以外の、興味のある人が調べてくれる”。

こうした感覚が、強いのではないだろうか。


では、彼の国?ではどうだろうか。


”貴重な先人の足跡から、知恵を読み取ろう”という気持ちがあるのだろうか。

たとえば住宅。


日本では基本的には、”自分の家は新築”。



地震が多く、木造であれば、建て替えたほうが”安全だ”。


欧州では石造り。基本的には住み替えとなる。



前の住民の”息遣い”をいやでも感じる。そこを自分の好きな形に変えてゆく。

そこでは先人がまた同じようにしてきている。

だから自然と感じる。”先人とは自分であったかもしれない”。


いや、宗教感という意味ではない。ただ、なんとなく”時間差があっても共時性を感じる”という精神の土台が、そこからでも出てくるのではないだろうか。


そこが学問にも利いてくる。ふるきを訪ねて新しきを知る。古さを足がかりに、そこから”自らの枝を伸ばしてゆく”。


学問とはそのようであるべきかもしれないが、そこで足がかりとする、という部分に気持ちがどれだけ置かれているか。

そこのところが本質的に違っているような気もする。


自分のものを、成し遂げなくては。


そのプレッシャーが自然に強い。



日本は古来から自然災害が多いところだ。

そこで、民族的知恵として、”忘れること”が自然と行われてきた。

重たい、記憶、だからだろうか。



それもある、かもしれない。個人で背負うにはいささか重い。

稲は、毎年植える。1年は1回かぎり。


遊牧や狩猟を生業とする民族と農耕民族の記憶のDNAの差,といった面もそこには、もしかしたらあるのかもしれない。

身体と精神。主人公感、ということ。

掃除をした。

舌を噛んでケロイド状に、そして尾骶骨におでき。


さて、掃除とは体に関連する服の上にある服のようなものだ。

与えられた服なのか、自ら選んだ服なのか。


身体とは、いまの僕の感覚でいけば、”魂の仮の乗り物”。

仮だからといって、粗末にすればその”耐用年数に影響する。”


家であろうが、仮の住みかたるこの身体であろうが、心の自然な構えとしては、


例えば、汚れれば、不調となれば、なんとはなしに、”自分の管理が悪い”という気持ちがどこかに生まれるのに気付いた。


自分は体のことは気にしない。家は帰って寝るだけ。


そのように思う、あるいは思おうとすることがある。

だが自らの心を観察すれば。


どうも”無理”があるようだ。どこかで強がっている。強がる、とはそうではない心持ちを無理に押し殺すことだ。


では、”掃除せねばならない”のか。体は何時も好調に保つ”べき”なのか。

この”ならない””べき”が曲者なのだ。



強制感、がある。自分でやりたくない、というニュアンスが必ず潜んでいる。

ここが問題。



ここは、たぶん、”攻める”べきなのだ。


攻める、ためには、自らの”主人公感”が重要だ。



みずからの行いたいことは、自らが行う。勿論その結果を100%受けるのは自分である、というのが反作用としてもれなくついてくる。


これだ。


これだな。





断捨離、というのも畢竟この境地を指すのだろう。

みずから、ものを、自らの体も含み、コントロールしようという、意思、のようなもの。


これが、”主人公感”の一部である。


魂の世話、勿論これも主人公のやるべきこと。

いや、身体や家の管理の一段上の重要事項である。



。。。が、それは、実は身体と家の管理を行ったうえで行うべきものだ。



それがないと、魂にたぶん行き着かない。


で、つまり結論は、


身体と家を自分の影響下に置こう、という意思を持とう。

つまりそれが”主人公感”。




そこにはおのずから、”魂の世話”につながってくる階段がある。