夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

止まる時間、動く時間。

沢木耕太郎の”銀河を渡る”を、読んでいる。

 

副題は、”全エッセイ”、あとがきによると25年分のほぼ純粋にエッセイと呼べるものを掲載したものであるという。

 

同じくあとがきによると、”かつて、山口瞳は、私のエッセイについて「エッセイを小説のように書く」と評したことがあった。そして、自分自身については「小説を随筆のように書く」のだとも。 その「エッセイ」を「ノンフィクション」に置き換えると、私は「ノンフィクションをフィクションのように書いている」ということになるのかもしれない。”(P.459)”ノンフィクションとフィクションのあいだには越えがたい、あるいは超えてはならない一線がある”(同)と書く。

 

個人的には、いわゆる子供時分には、ほぼフィクションばかりを好んで読んだ。それも主には幻想小説といわれるものを、探しては読んでいた。

当時は今ほどファンタジーが盛んとは言えず、”ファンタジー”臭いものを探して読む、という愉しみもあった。どちらかというと、日本ものよりは、英米系のものが好きであったように思う。その中でもハイファンタジーが特に好きであったが、いわゆる行って帰って来る(ナルニア系)のものでもよかった。私の子供時代の置かれた気持ちが、そうしたものを好んでいた理由でもあったのかもしれない。

いま、ここではないどこかへ。

私は本の世界へと、現実から、逃避していたのである。

 

運動ができない子供だった私は、自らの価値が”野球力”(当時はサッカーより野球だった)に在るコドモ世界では、自分が主役ではないことに気づいていたし、傷ついてもいた。別に好きで運動ができないわけではない。ただ、できない存在としてこの世でやってゆく必要があるようだ。仕方がないかもしれない、だが読み物の中でだけは。。

 

いつからか、気が付くとノンフィクションを好んで読んでいる自分がいた。大人になって、運動だけが評価基準ではない世界に来たからかもしれない。あるいは生来の天邪鬼気質で、幻想譚が主流になったような最近の読書環境に若干食傷気味、というところもあるだろうか。

 

沢木耕太郎という人は、”男の王道”を行く人、というイメージがある。

本作の中でも、高校時代は人に頼まれ、さまざまなまとめ役をやったという。

さっぱりとして、人望があり、自分の世界をしっかりと持っている。

 

こうしたひとに対しては、私は心の底ではジェラシーをもっているようだ。自然体でそうあるひと。なにをやってもかなわない。そもそも人との比較など、全く考えもしない人であろう。

 

運動もできるだろう。背も高いようだ。

 

こうしたうじうじした気持ちを持つこと自体、というか、持たせる存在である人である、ということが、即私を複雑な気持ちにさせる。

 

沢木さんは物欲がほとんどないという。鏡をみることもほぼ無いそうだ。

 

そんな私とはほぼ正反対の沢木さんのエッセイであるが、だが面白い。読むことが、沢木さんとの会話であるようだ。正反対な人、だからよけいなのか。

 

そんなことも思いながら読み進めている。

 

あわただしい時期、沢木を読んでいると、ふと時間が静止したような気がした。

沢木が切り取って、送ってくれた旅の風景。

 

それを味わって、一瞬が永遠となり、

 

そしてすぐに動きだす。

 

 

71ページに三島由紀夫がエッセイの末尾にしたためた一文がある。

 

三島の日本への祈り、「世界の静かな中心であれ」。

 

 

この一文にであっただけで、今日はもうおつりがくるなあ。

 

長年利用してきた”はてなダイアリー”から、”はてなブログ”へ移行することになった。

銅版画をやるようになって、絵を描いているとどうも文章のほうはお留守になるようなのだが、移行記念に久しぶりに投稿してみた。

 

余り投稿できてはいなかったが、結構前からの自分の想いがなくなってしまうのは忍びないと感じていたので、無事移行できたのはありがたい。

 

そして久しぶりの文章が、25年分のエッセイを纏めたという沢木の本についてである、というのも、何かの縁、なのかもしれない。

 

私とは何か。

おこがましくも池田さん著書と同じタイトルを付けさせて頂いたが、

池田さんの言葉を抜き書きしている日記のようなものの過去抜き書きを読んでいたところ、

こんな断片があった。



 人が本当に自分のものと言えるもの

  「魂」「身体」「時間」


ちょっと引用書記載がなく、申し訳ないのだが、小林秀雄の有名な言葉、


 歴史とは、無数の私がどこかへ飛び去った形骸である



と共に書き写しているので、たぶん「事象そのものへ!」からの引用と推察するが(別途確認します)、


自分のものといえども、この3項、時間とともに変化のあるものでもあるようだ。


人がただ、金のために生をあたら無駄使いする、ことを実は僕自身はある程度仕方のないことだと思っている。


僕が小学生の時、母は言った。



先生なんかなったらアカンで。とにかく給料が安い。



うーん、そうなのか。


深く魂に(笑)、刻まれた。



実感としか、感じなかった。これがお告げか、とも思った。



子供のときから運動が出来ず、カナヅチで色が白く、野球はからきし、休みは家でマンガか本。

TVも、マンガか相撲。


こんな幼児だったので、人との交わりは基本苦手。

まあ、センセイとは生徒になにかを教えるわけで、教えるほど習熟することがあまりありそうもなかったので、

まあ、そんなもんかな、


と思っていた。



父親は技術系のサラリーマンだったが、自分では算数は大嫌いで、とにかく学校では好きな科目は図画工作。勉強なしでできる国語も楽だった。

たぶん、あのひとことがなかったら、美大で教職でも取って(取れるのか?)、中学校位の美術教師を目指していたかもしれない。

算数→数学の出来なさは、とにかく頭がそういうふうに出来ている、ということばしか浮かんでこなかった。

無理を承知で、数学は答えを暗記。とにかくわからないけれどなんでもいいから書きまくって部分点を狙う。

数学や物理では、とにかく頭脳がホワイトアウト。思考停止する脳の姿を描ける位だ。

いやあ、いまだに思い出しても、辛いものがある。



祖父は大学で仏語を教えていた。フツウに考えると、なんだかかっこいい職業のようだが、その娘である母がいうのである。

センセイはアカン。


そうか、大学でもアカンのか。



そうして、サラリーマンになった。


とにかく食べられる仕事せなアカン。


母のことばは、重く、正しかった。



人生の賭けとして、それでも大学は某早稲田大学の某イチブンを受けた。第一志望。

ここなら有名大学だし、文学部でも食べられるような気がする。小説家コースもある。ダメでも出版社にでも入れるような気がする。


落ちた。


ここをおちたら、きっぱりあきらめよう、食べるために別の大学に行こう。算数できないから、法学部しかないわな。


あきらめて、法学部に行った。そしていま、サラリーマン。



なんとか、食べている。


ソクラテスは生きるために食べた。食べるために生きるのはだめ。まず食べる。そして生きる。


その順番を教えてもらった母には、感謝している。


しかし、自分のものである「身体」と「時間」は、経年とともにあきらかに可能性としての残りは減ってゆく。

そして、魂。


魂を世話、せねばならない。



時間と身体は、そのためにあるような気がする。

時間を使って、見る、感じる、考える、の身体の各能力を使って、


魂を、ブラッシュアップ、せねばならない。




出来て、いるのか。


こころもとない。



でも、私とは、


自分のものである「時間」と「身体」を使って、


「魂」の世話をすること。


これ、似ているようだが、世話、と自分探し、

違いますから気を付けるように、



そんなことも池田さんはおっしゃっているのだが。

自分さがしとは何か。

自分探しを世界を経廻って行う、

あるいは多くの職の経験から行うのは違う、


まずはみずからが今ここにあることの奇跡に驚き、

自らの魂に向き合い、深く対話を行うことで自らに出会うべし、


・・・池田晶子さんならそうおっしゃる気がする。


自らの外に真の自分がある、という心構え、ここになにがしかの甘えや逃げがある、というご指摘でもあるだろう。

池田さんの有名なる一喝、”悩むな!考えろ!”

に因んでいうなら、”逃げるな! 考えろ!”となるのだろうか。



そんな風に大体考えていた(いる)のだが。。。



なぜか女流の文筆家に惹かれる。

池田さんはフェミニストによく攻撃された、とおっしゃっていた。これは魂には男も女もない、考えに男女差があるわけがない、あるのならそれはあなたの問題でしょ、

とある意味問いの立て方の根本から揺るがせてしまうそこをたぶん攻撃されていたのだとの理解である。

”そう言われてしまうとおしまいなのよ”

ということではないだろうか。



しかし、それならどうして女流の文筆家にこうまで惹かれるのか。

池田晶子須賀敦子片山廣子松村みね子)、高峰秀子白洲正子

すぐに思いつくだけでもとたんに何名も出てきてしまう。

海外作家ではそうでもない。


フィオナ・マクラウド


村松みね子名義で片山廣子が訳した”かなしき女王”。覆面作家として女性名で出版されたが、実は男性作家である。

そういう意味では、昔親しんだ幻想文学トールキン、ルイス、ロフティング。

海外作家ではこちらは男性陣が好きなようだ。


これはもしかすると日本人(と自らが思っている人々=池田さん流にいうと、日本人であることも思い込みになるが)、特に男性に見られる傾向がなんらかの形で僕の好みに影響しているのかもしれないが、

まあ、ただ我が内なる魂が、世間一般では”女性性”に近しき系譜だと感じていたとしたら、マクラウドが女性名で作品を発表したのもなんとなく頷ける。


美しいものに惹かれる心、どうしようもなく、惹かれ引っ張られる。

これは果たして女性的、なのであろうか。



前置きが長くなった。


河出文庫須賀敦子全集の第8巻、を読んだ。

ここには松山厳氏による須賀の詳細な年譜が含まれる。

数百ページに及ぶ年譜、それはそれだけでその中にあった”須賀敦子”という人格、そこに思いがもっていかれる、

それだけで一つの物語であるようなものであるのだが、


そのあとにある松山氏によるあとがき、を読んでいて、自らの信仰を探す旅、これはあるのかなと思った。



信仰を探す。これはまず自らの魂に向き合わねばならない。



須賀はみずからのなすべきことを探すため、”戦後の日本社会に裏切られ、パリで「あたらしい神学」の渦中に身を投じようと、たった一人で海を渡って”(同解説P.619)留学生となった。

だがパリでは”化石のようなアカデミズム”(同上)にぶつかり悩み、そしてイタリアへと赴く。

”「なんの脈絡もなく、薔薇窓やステンド・グラスの華麗なカテドラルを造って、彼らの時代の歓喜にみちた信仰を美しい形で表現しようとした中世の職人たちのことが、こころに浮かんだ」”。

パリで、ローマ教会から禁止された労働司祭のミサに参加した際に感じたことを、須賀はそう記した。そしてそのミサのあった場所が、”十三世紀の天才的神学者アクイナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いないことに気づ」くのである。”(同P.618)

ローマで過ごしたあと、須賀は古都アッシジへ向かう。

800年前、聖キアラが暮らした街で、須賀は”「三方を高い石の壁にかこまれた一坪ほどの細長い空間」、「聖キアラの庭」に心を奪われる。雛菊とわすれな草の植え込み。二匹の金魚が泳ぐだけの水たまり。”(同P.620)

”私の現実は、ひょっとすると、このウムブリアの一隅の、小さな庭で、八百年もまえに、あのやさしい歌をうたった人につよくつながっているのではないだろうか。私も、うたわなければならぬのではないだろうか」”(同P.620)。

松山氏解説からの引用が続く。もう少し引用させて頂く。

”これは至福であり、この喜びはさらに、庭を案内した修道士が呟いた聖フランチェスコの詩によって高まり、至福は恩寵であると気づく。
 「しばらくやんでいた雨が、またばらつきはじめた。案内の修道士(フラテ)が、金魚の水溜まりに浮んでいた二三枚の葉をとりわけてやりながらつぶやいた。雨だよ、たくさんあたっておたのしみ」”(同P.620-621)。


恩寵、との出会い。


これは、


これは、みずからの魂に向き合って悩み、苦しみ経廻ってそして出会ったものではないのだろうか。



場、にいること。


魂の容れ物としての身体を、その場に居させて初めて感じ取れるもの。


そんな”自分探しの旅”、がもしかするとありなのかもしれない。


池田さんにそんな問いをといかけてみたい、そう、思った。


かなしき女王―ケルト幻想作品集

かなしき女王―ケルト幻想作品集

かなしき女王―ケルト幻想作品集

かなしき女王―ケルト幻想作品集

須賀敦子全集〈第8巻〉 (河出文庫)

須賀敦子全集〈第8巻〉 (河出文庫)

生と死。

死によって生に亀裂が走るのではなく、生は死を乗せたまま動きつづける。

 武藤洋二

漠とした憧憬。これこそ物事の始まりではなかろうか。

 北杜生

命の個性の幅は、常識の幅より広い

 武藤洋二

想いを馳せる-池田晶子 ”最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論”

ほぼすべての池田さん単独名義(一部文庫化本は除く)を、

池田さんの”魂の発現”、あるいはハリーポッター的に言うのであれば”分霊箱”として所持させていただいている僕であるが、

唯一、といっていい不所持の本であったこの本をアマゾンにて古書価にて購入した。

実はこの本の購入は、絶版本であるが故に高価であること以外にも著者自ら絶版した(とご本人が書かれている)ということもあり、躊躇っていたものではある。

だがしかし、うらわかき池田さんが鮮烈に文壇デビューされた(まあご本人はそんな気はお持ちではなかったかもしれないが)いわば歴史の香気を嗅がせていただくよすがとして、またそうした事実をいまこの手で自ら掴める(個人的に古書の魅力とはそれが大きいのである)ということにかてて加えて(笑)、

例えば池田さんご自身が敬愛する小林秀雄への手紙の中などで述べられているとおり、小林がいわば完成に辿り着けなかったベリクソン論を国会図書館(いや、慶応の図書館だったかな)に閲覧に向かわれたように、そして”なまなましき小林の苦吟”に雑誌ベースにて接し実感されたがように、

不肖私めも池田さんの”処女作にして鬼っ子作”でもあるこの本に、いわば引き寄せられ入手させて頂いてはいけないのか、いやいいのではあるまいか、と

なんだか妙に力みながら購入に至りました、という状況でございます。


まあ、実を言わせていただくのであれば、海外出張で頂いたJAL搭乗の付与ポイントで、AMAZONさんのポイントに変換が出来る、そしていや1万円相当、という事実が急にわかり、

ここはもうあの本しかない、といわば少しく運命をも感じながら(いや大袈裟)

ありがとうJALさん、そしてすみません池田さん。


。。。ということで手に入れさせていただいたのが実態なのでございます。。。



そして今回の購入でのもう一つの魅力は、この本、オビ付きであることである。


オビだけをコレクトされる方があるように、オビの惹句にはなんとも言えない味がある。工夫がある、苦吟も、ある。

さて、この本の惹句のみ改めてここに書いてみる。

埴谷雄高の精神と思想を 
 最高の位相において
 継承せんとする
 若き哲学徒による
 清新な思考のプリズム

 新たな思想の胎動を告げる
 話題の評論集” 

この惹句、もしかしてこのあと池田さんともめて絶版に至る原因ともなった編集者のかたがもしや頭をひねらせたのかしらん、などと考えるのも一興か。

そして裏面オビ。

そう、東京新聞にご本人である埴谷雄高氏自らが批評された文書が掲載されている。

いや、これは豪勢だ。

「文学の文体で書かれていないのがマイナス点だが、全く作品だけで、しかもこれまでの批評家のように哲学者の論理に私を合わせてしまうやり方ではなく、私の論理を証明するため、哲学者をうまく使っている。
 こういう正攻法の批評は従来全くない。これを女性がやったということに驚いている」

(段落は変更させていただいております)


いや、埴谷さんのヨロコビが溢れているではないか。


これはいい。


読んでいて、こちらも嬉しくなるようだ。


個人的にもこのとき池田さんをたぶんご存じではあったろうが、まな板に誤って載せられ続けてきて、そして黙って料理されてきた極上の食材自らが、こころから、正しく、料理されるヨロコビを感じている風情、などと申し上げると言い過ぎか。

いや、たぶん、大丈夫だ。



池田さんと埴谷さんの邂逅は、池田さんが小林秀雄に直接出会えなかったこの世の不幸を、だいぶ和らげているのではあるまいか、とかねてから感じていた。

池田さんも、たぶんそのように感じてらっしゃったと思っている。


さて、ではこの本、本文の書き出しを”写経”させていただこうか。


「何が思索を命じるか」とハイデガーが問うたとき、二千年の「忘却」の歴史を超えて、初期ギリシャの哲人たちが、そこに甦った。そして、「死霊」七章の補遺「《最後の審判》に添えて」において埴谷は言う。二十世紀の三輪家の兄弟の負った課題を少数の読者は感じてくれるであろう。そしてその少数の読者は、「存在」そのもののはずである、と。

 P.007

 池田晶子 最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論


香気ここにあり、だ。

写経。

南京、に行った。

その都市に関しては、まあこの日の本に在していれば、初めてのときには事前にいろいろ気になった部分はあったのだが、”都市の記憶”が僕個人に対峙するわけではなく、はたまた僕個人がある状況に対して意見を表明する機会もなく、個人と個人のお仕事をする機会であったならば、特段なにごとも起こらなかったわけで。

まあ、そのことをここでいいたい訳ではなく。

そも中国では我々日本人が日々いろいろ使用しているいわゆる”SNS"というやつ、これが米国企業オリジンだったりするとほぼ日常使用はできない。つまり移動中たよりになるのは、やはり”文庫本”であった、と改めて実感した。

たぶん池田さんの肉体が、いまのこの世(この世とはなにか、という問題はさておき)に在られますれば、こういういわゆる”SNS"というものに強烈な”形而上的一撃(メタフィジカル・パンチ)を放たれていたかもしれないのですが、それもさておき、

結局時間つぶせないのなら”本読むくらいしかない”。

いちいち立ち止まっているのもなんだかだが、この”時間をつぶす”という行為、これは”この生が奇跡的な事実である”ことを実感しているのであればまずはもったいなくて出てこない言葉、ということになる。。はずなのだが凡百たる我が身のこと、当り前田のクラッカー(あ、これ前回も使ったな)のようにフツーに出てくるわけであり、

まあでも、日本国の新幹線プラットフォームに鎮座まします”キオスク”で列車ミステリーの文庫本を”ちょっとこれ安易かな”という気持ちを心の片隅に持ちながら求めることも勿論できない。

そしてそして、””すごく感動して、絶対また読むぞ、と決心しつつ読み返すことは結局皆無で、そしてその存在を目にすると”あ、宿題やれてない”と気持ちで都度微妙にブルーになる””場所を取ってしまうものの代表”として”時間つぶしに買った文庫本”などがあるわけであり、

これが子供時分に読んだものであれば知らぬ間に実家では処分されており、その処分時の想定される葛藤皆無でありがたく自然に遂行して貰えたりするのであるが、一人で住むみであればそれもなく、、


、といったことをつらつら考えていると、”こりゃあめったなことで文庫本は買えないぞ”という気持ちに実はなっている。


おもちゃしかりマンガしかり。

一度”限界まで物量がしらずしらずに増えてしまい、非常なる心理的葛藤を経て、泣く泣く手放す、売っても雀の涙、という経験を経てみると、これはこれでありがたいのかもしれない。買わねばならぬ、という欲は減っては来ている。


まあ、これは”自分の人生は先に何年あるのだ”という考え、これは基本他人の経験の総和と平均の結果である”平均寿命”というやつの”意図せず確信犯的にだまくらかし”に知らず知らず乗ってしまった結果であるが、とにかくそれを持ってしまった結果、”先行き何年ある自分の人生に対し、資料、なんらかの自ら納得のゆくものを作り出すためのそのための下肥、として例えば本などを貯めてゆく”、という行為が、まあ、歳も取ったし、まあもういいんじゃないかな的な心の声が芽生えた結果、

などなどによるものなのだろう、と思っている。


あ、思い出したが、あの”天気予報”というやつ、名前が”予報”とついているので、まあ”予言”という風に耳の勝手な言語変換によりいままでやってきたのだが、最近どこかで聞いた話では、あれは”予言”ではなく、”過去のデータから導かれた結果をただパーセンテージで示したものに過ぎない”そうである。

これは一見というか一聞というか、まあ同じ物のように聞こえるが、

だいぶんと違う。言っている人(機構?)の責任感、すなわち”なんかあったら謝ります度”が断然違う。


つまり”基本これは過去のデータから導かれたものですからそも当たった、当たらなかった、という議論から我々はエスケープさせてもらってますよ”という気持ちがあるのかないのかの違いだ。


いや、そういう”責任感”みたいなものを持って、いわゆる”覚悟を持って仕事をせよ”といいたいわけではない。

そんなの無理だ。

これはたぶん最近の天変地異、いわゆる地震や雷、台風の類、こうしたものの”予知”にともなう”予知者”への世間、といわれる皆さんのコンコロモチがそもそも苛烈であることから来ている、というのが我が見立てである。

”当たらなかったではないか、何考えとるんじゃ”。


・・・これである。


”おまえらプロならきちんと予想せいよ”


過去為政者は、旱魃に面し自らを人身御供として差し出さねば、の存在でもあったろうと思う。

神の声を聴き伝える、という行為が反したように見えたときの発声者への”民による処罰”たる”死の賜り”。場合によっては例えば橋の杭の下に埋められる、塗り系のものであれば”塗りこめられる”。


これはきつすぎるでしょう、という思いが、同じく”予言系”のお仕事の現代版たる”天気予報屋さんの皆さん”に皆無である、とは個人的には思えない。


”そこ、責任もてませんぜ”


と、当然そうなる。


ただし、一方で”それをいっちゃあおしまいよ”ということがこの世にあまたある。この思いの発露もまた”禁じられている”=”お仕事の安寧の為に”。

”お仕事”の冒頭語(接頭語、かな)”お”には、”この人たちはここでこの仕事してオカネもろてよし”という怖ーい”世間の承諾”が漏れなくこもっている。

まあ、まわりくどくて、そも言いたいことから外れてしまっているが、とにかく”天気予報の機構”は、”これは過去の実績の集約から導かれた「予報」であり、未来をあてる「予言」ではありませんよ”と、ちょっといらつきながら設定している。

その心は、


”外れても怒るなよ”


である。


どこの国だかは忘れたが、為政者が天変地異の発生で大きな被害が出たときに、”世間一般の怒り”、つまり、”国はキチンを予測ぐらいせんかい”という、怨念的にドロドロした思い、に対するいいわけ的対処に、例えば地震学者を処罰する、ということがあったような気がする。

本来そこは正面切って正論で、いや本来予言なんてものはニンゲンには無理だ、予報なら可能性としてできますがね、

とすっきり説明というか、認識の確認というか、があったほうがいい気もするが。。。。



。。。。ええと、ちょっと暑くて集中力が低下して、


そしてタイトルの”写経”に行き着くことができないようだ。

言いたかったのは、


1.池田さんの本はそもそも”人生の必携本”であるからしてその著作群のなかで、文庫本になっているものはこうした移動時の携帯には最適で、

2.今回は”メタフィジカル・パンチ”を携行したが、相変わらず”何回でも読めて”、どこのページを開いても、真実が”金太郎飴の如く”みずみずしく顔を出していることに改めて驚嘆し、


3.思わず機中で、一項まるまる書き写していた



・・・それが写経のようであった、写経とはそも言葉を書く行為によって体に、魂に、しみ込ませる装置であったのではないか、


といったような事を言いたかったのです。


残念、行き着きませんでした。



因みに書き写したのはやっぱり”小林秀雄”の項、であった。



小林秀雄が好きな池田晶子さんが好きだ



これって、なんなんですかね。三角関係?



でも珍しい、”嬉しい三角関係”ですね。

言葉。

自由とは、自分に対してのことのみである。

他人との関係において”自由”を求めることは本来無理なことである。

描くこと、書く事、それらの行為において、他人を意識せねばならないものは本来のそのものではない。

・・・のかもしれない。


池田晶子、”無敵のソクラテス”(完全版)P.145から。

ソクラテス いや、逆だ。言葉狩りをさらに徹底せよ、と僕は言いたいね。作家の仕事とは黙って書くことだ。社会に意見して騒いでいるようなのは、まず作家じゃない。自分の欲しいものを他人に求めるのは卑しいことだと、僕らは同意したね。僕は、そういう卑しい物書きから、言葉を取り上げてしまうべきだと思うんだ。「卑しい心で言葉を書くな」とね。言葉を守るとは、本当はそういうことだ。作家が特権的になれるのは、自分の言葉をもったときだけだ。”


池田さんがソクラテスなのではない。

ソクラテスが池田さんなのではない。



しかし、卑しいという意味を本来の意味であるとおりに把握できる心、これが案外と難しいし、忘れてしまいやすいのだが、その心をもっていることを、ソクラテスというのか、池田晶子というのか、そこには区別も差別も!ない。

という意味においての一体感は、あるのだろう。


モノを作り出すことで、その点はすごく大切なことなのだ。



でも池田さんの言葉を読んで、やっと思い至るのは、なぜなんだろうか。


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IT の次は、不老。


ええっと、別の話で。



世にITは蔓延した。蔓延、ということばには、”それが蔓延したことは余りよくない”というニュアンスを若干でも含むので、では”ほぼ完成した”でもよいかもしれない。

ここでいおうとしている、ITとは、たとえばいわゆる”魔術”や”超能力”の名で”一般人には無理ですよ”というニュアンスのあった行為が、多くの人類に可能となったことを言おうとしている。

ITによって、遠くの人間に、意志を伝えることが可能になった。

どうやって?


ほら、”電話”ですよ。あるいは”メール”ですよ。


ええっ?


なんにも不思議はない、どこに”魔術感”があるのかな?

どこが”超能力”?



ハリポタ映画を見れば、画面の過去の大魔道師が壁面の額縁で動いている。

これはほら”サインボード”。


ひとつも不思議じゃない。

サインボードですよ??



ひらけゴマ、ってありますね。


あれ、自動ドア。




うーん、確かに勝手には開くけど。

あれは”キイワードを知っている人だけに開く特別感”がセットだったはず。これもちょっと違うなあ。



まあ、それはそうだ。魔法や、超能力は、すべからくそれを持った個人のみへの恩恵であった。


そこのところ、”万人に与えられる感”が魔法や超能力である、というイメージを想起させないのだろう。

まあ、そこはある。


だが結構いろんな魔法が実現しているのではある。

ITでは、テレパシイ。多くの人に自らの意見が伝わる。


翻訳コンニャク。


翻訳ソフト。名前を”コンニャク”に変えればいい。


まあ、精度はいまいちだが。これは進歩することはわかっている。



アトムは自我で悩んだ。ロボット3原則。ロボットに意志はない。


ん??意志ってなんだ?



区別できるのか?



それらしく反応するものに、意志があるのかないのか、本来的にわれわれに識別可能なのか????


魔法が、当たり前田のクラッカーのように、目の前で、自然体で実現していっている。


そして、そこに特段のありがたみもない。


自明の進化として、やってくる。順序を経ているので、そこに不思議感はないのかもしれないが。


これから何十年かすると、ITの進化が人間の思惑を超えるときがあるという。


それは、ITがコントロールできないこと、ITに管理される人間社会がディストピアとして夢想されてきたのだが、それがごく当たり前のこととして、到来するのだろう。


不思議は、ないだろう。


多分、ロボットは”意志を持つ”。


他人が生きているのか、死んでいるのかが、”意志”を”意志”と呼ぶ基準であるのなら。


まあ、取り急ぎ一つくらい”臓器”をぶち込んだ機械を作ったのなら、それが”生きている”のか”死んでいる”のかの区別はあいまいとなる。



臓器は、たしか、培養できるんですよね。


豚の臓器でもいいのかも。


ああ、”故人の意志”をコピーした、豚の臓器をいれた”亜人間”。


いまはブラックジョークかもしれないが、これは来るなあ、確実に。

なかなかめんどくさい、問題かもしれませんね。



医学の倫理観、という。そこに宗教性があるのかないのか、とも。


ここでいう”宗教性”は単に”抑止力”の意味なのかもしれない。

”禁忌”という意味での。




そこで、”不老”。



IT長者が次の投資先として選んでいるのは”不老マーケット”。


たしかにそうだ。


”魔力”を半ば得た人類は、次はまじめに”不老長寿”へと挑む。


もうすでに、その”挑み”は始まっている。



いいことなのか、悪いことなのか。



そういう判断のない世界で、既にスタートしている。




八百万の神のいますこの日本で、それはなかば”野放し”状態で、”ガラパゴス進化”するのだろう。



それをとめることは、不可能である。



とめる必要があるのかないのか、それは進化している途中で、考えながら状況に対応してゆく、


それがこの日本国の作法なのであろう。



いやあ、なかなか大変ではある。